江戸の味を守り続ける 佃煮の老舗 日本橋 鮒佐 宮内隆平さん
東京でも日本橋界隈は江戸時代から続く老舗が多い街である。日本橋室町にある三越日本橋本店の向かい側の路を4~50m先行ったところに佃煮の老舗「鮒佐」さんがある。文久二年だから幕末の頃の創業で、初代は「鮒屋佐吉」といった。現在の当主は四代目の宮内隆平さん。(写真・左上)
我が家ではここ数十年来、朝の食卓に「鮒佐」の佃煮を欠かしたことがない。私が仕事で東京へ行く機会が多くなり、母親から買ってくるように頼まれて立ち寄ったのがキッカケといえる。現在102歳(健在)になる母親が若いとき、東京の本郷に住んでいて、その頃から贔屓にしていたというから、通算すれば 70年くらいの母子二代にわたるお付き合いである。
そのような関係で四代目に色々お話を聞きご登場頂くことになった。
初代は房州出身で、江戸の神田お玉が池にある「北辰一刀流・千葉道場」で免許皆伝の腕前だったそうである。ところが時代は幕末で、もはや武士が巾を利かす時代でない事を見通したのか、千住界隈で作られていた「鮒のすずめ焼」を自ら製造販売を始めて転身、食通の間に評判となった。当時この辺は、日本橋の魚河岸もあり、江戸でも殷賑をきわめた場所である。
俳人・松尾芭蕉が江戸へ出てきて、魚河岸に住んでいたことは資料に明らかで、鮒佐さんの店の入り口には、ゆかりの石碑が立っている。「発句(ほっく)なり 松尾桃青 宿の春」という句であるが桃青(とうせい)は、芭蕉の前の俳号。建立までの資料、発掘、検証は四代目・宮内さんの尽力によるものである。(写真・右下、左の石碑)
当初は佃煮といっても江戸前で獲れた材料が主で、種類も少なかったが、白魚の佃煮などは食通の高級な食べ物であり、落語の中で、泥棒が侵入した家の食卓に「鮒佐の白魚」が載っているのを見て、貧富の判断材料としたいう。落語(はなし)の中に老舗の商品を取り入れて、CMにしてしまうのは、現代の手法を先取りしたものといえる。
三代目(先代)は、日本橋の小学校で久保田万太郎(作家)と同級生であった。万太郎は、新派の名作「婦系図」(おんな系図)の脚本に、鮒佐の佃煮を手土産に訪問する場面を設定、友情PRという粹な計らいに及んだという。それで、主演の花柳章太郎も自筆の絵に「鮒佐煮や時雨る味の東京を」という賛を添えて描き贈っている(写真・右上)。それゆえ、戦前から鮒佐の佃煮を贔屓にする有名人は多い。
佃煮も名称の起こりは、徳川家康が三河から連れて来た漁師が佃島に住み、小魚を塩煮にしたのが始まりとされている。しかし、現在の佃煮は、醤油がなければ成り立たず、江戸後期の関東における醸造業の勃興をまたなければならない。だから、現在の形の佃煮は意外と新しいもので、初代が今の佃煮を考案したのは、ほぼ間違いないという。「元祖佃煮」を名乗るゆえんでもある。
佃煮の材料も戦前、戦後、時代により変化している。江戸前の白魚など、とれなくなってしまったが、お客様の嗜好の変化も察知して、新しい素材も揃え、昔ながらの海老、はぜ、しらす、はまぐりの他、現在は、三十数種類にものぼり、他に煮豆類、甘露煮まで取り揃えている。
老舗と言っても、各店中身を見ると意外に革新的な意識を持っている。材料も出尽くしたようで、探せば結構よい素材があるという。また、煮方、味の付け方も代々工夫して、昔からの方法に加え、五代目(ご子息)が工場の陣頭指揮をとっている。細かいノウハウの蓄積は膨大なものになるという。ただ、以前と違って神経を使うのは、素材の調達。産地の変遷や変化に対応して、時には外国産のものにも目配りするが、品質に対する基準を落とすことはない。
佃煮というと「古い食べ物」というイメージを払拭するため、若い人向け食べ方の提案も、五代目(ご子息)を中心にいろいろ試行している。また、既存の流通以外に時代でインターネットも力を注いでいるが、日本橋・老舗同士のコラボレーション(名だたる老舗合作のお節料理「七福」)も新しい試みとして始まっているという。
お節料理に、鮒佐の「鮒のすずめ焼」「海老のおにがら焼」「わかさぎのいかだ焼」は、欠かせない。この日本の食文化の一角を形成する「佃煮」が、もっと見直され、再評価されてしかるべきと思う。これを機会に一人でも多くの人が知る端緒となればと思いご紹介した次第であります。
