『死の同心円』長崎被爆医師の記録

この本は昭和47年に講談社から一度出版されたが何故か廃版になっていたらしい。私が目にしたのは35年ほど前、ある雑誌の抜粋版を読んだのだか、一度全部を読了してみたいと思っていた本である。
日本は世界唯一の原爆による被爆国としていろいろな記録が残っていなければならないのだが意外と少ない。「検閲 1945‐1949―禁じられた原爆報道」という本にも書かれている通り、終戦後占領軍の検閲・発禁処分によってボツになった手記や記録が数多くあるのではないかと想像できる。
本書は昨年(平成22年)復刻版として出版されたが、医と食について見識ある医師だからこそ書き残せた貴重な人類の被爆記録として永く後世に伝えるべき書と思う。著者の秋月辰一郎先生は、被爆当日、爆心地から1500メートルの浦上第一病院(現聖フランシスコ病院)で診療にあたっていた。終戦8月15日間近の8月9日に原爆は長崎に投下された。時間的にみても日本が「ポツダム宣言」を受諾する連絡が行ってるのを連合国側は当然知っていた。それでいながら急ぎ原爆を投下したのは「白人優越、有色人種蔑視」の思想から来た新殺人・人体実験であったことは歴史上明らかです。
記録された内容は胸打つものですが、私が小学生(終戦時)のころ「長崎・広島には百年間ペンペン草も生えない」という風評を聞いていました。35年前雑誌の抜粋版を読んだとき疑問を感じたのは、その年の秋には病院の庭で自給のために栽培した秋なすやカボチャが異常なほどの大きさになった事でした。もちろん秋月先生の指導で収穫物は、塩漬け、みそ漬けなど塩分の濃い食品として病院で生き残った人々が食べました。被爆後、先生は病院の職員・医師・患者等すべての人に「爆弾を受けた人には塩が好い。玄米飯にうんと塩をつけてにぎるんだ。塩辛い味噌汁を作って毎日たべさせろ・・・そして、甘いものは毒だから絶対避けろ・・・」と指導し、先生のグループの人々は、原爆症の症状が軽くなったり、死を免れた人が大勢いました。
当時の塩は、かつて日本の海水から作られた「塩田の塩」ですから現在の塩とは比べ物にならない良質なものです。同時に日本という国土は神の僥倖に恵まれた国と感じます。記録では被爆後の9月、三度の豪雨と台風により放射能を含んだ大量の土砂・岩石が海に洗い流され、浄化された事ではないかと思います。9月2~3日の300㎜という記録的豪雨、9月16日の暴風雨で希有の大型台風だった「枕崎台風」で、そのコースは不思議なことに長崎から広島を通過して行ったと言います。記録では、広島は長崎以上の暴風雨であったそうな。そして3度目の暴風雨(台風)も襲来という過酷なものだったという。
それに比べると、アメリカの原爆実験場であったアリゾナやネバタの砂漠地帯は雨も降らず、いまだに高濃度の放射能が残留していると言われています。その地帯で長い間映画ロケに携わった西部劇俳優、ジョン・ウェインは、死因が放射能障害とささやかれました。また、旧ソ連(現ウクライナ)のチェルノブイリ原発事故では、既に25年近く経つのに発電所はコンクリートに覆われ、周辺は無人化して近隣の住民は故郷へ戻れず、いまだに放射能障害による発病が後を絶たない状態です。
チェルノブイリ原発事故で、日本は多大の援助を行い、被爆者の治療にも貢献しました。当時の報道で援助物資の中に大量の『味噌』が贈られたことは一部のマスコミが取り上げましたが、秋月先生の被爆体験が大いに貢献している事を深読みして解説したマスコミは少なかったように思います。
被爆者にとって過酷・無情な豪雨や台風が「災い転じて福」となったわけですから天祐ともいえるのではないでしょうか。爆心地から500メートル以内ではほとんど即死、1500メートル以内では爆死や負傷者の数や原爆症の患者が投下後一週間を過ぎてどんどん増えていったそうですが、9月16日の台風以後、急速に発症数が減少したのは「神風」(台風)のお蔭と著者も述べています。(長崎の原爆死没者数は14万9千人)
秋月先生は、一生を被爆者医療と原爆反対運動に身命を捧げ、自身被爆しながら89歳の長命を保ち、数々の被爆体験、被爆資料を後世に遺した。本書もその内のひとつである。この記録は過去の出来事でなく、昭和20年3月10日、東京の下町大空襲で焼夷弾によって非戦闘員の都民が8万人も爆死・焼死した事や、ベトナム戦争で空爆・ナパーム弾によるベトナム人の焼き尽くし作戦、現在進行中のアフガン戦争で岩石を貫き洞窟で爆発する新型爆弾など、今も形を変えて継続している戦争犯罪です。
日本人だけでなく世界中の人々が読むべき記録で、核爆弾被爆の最初にして最後の人類の記録にとどめて置くべき一書と思います。
★著者・秋月 辰一郎(あきづき たついちろう)
大正5年(1916年)長崎市生まれ。昭和15年(1940年)京都大学医学部卒、長崎医科大学 放射線科より昭和19年(1944年)浦上第一病院へ赴任、医長として勤務中に被爆。
昭和28年(1953年)聖フランシスコ病院に復帰。終生同病院を離れず。
★定価、1,600円(+税) 発行・長崎文献社(長崎名著復刻シリーズ002)
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