食の匠たち-12 食の思想家・石田英湾先生

石田先生とのお付き合いはいつ頃始まったのか余り記憶にない。しかし、25~26年は間違いなく経過していると思う。私の尊敬おくあたわざる先輩のお一人である。
長年「群馬マクロビオティックセンター」を主宰し、「お米を正しく食べよう」という運動を主宰している。マクロビオティックとは、遠くは明治時代・石塚左玄が著した「化学的食養論」にはじまり、思想家・桜沢如一が食養=宇宙秩序にのっとった人間生活のあり方にまで思想を深化した考え方です。現在、マクロビオティックの思想はヨーロッバや米国の知識層に浸透し、玄米菜食をする欧米人が増加していることは周知の事実です。また、日本でも最近は若い女性に関心を持つ人が増えているともいわれています。
先生の考え方や思想は、桜沢如一⇒大森英桜⇒石田英湾と日本国内において正しく思想を受け継いだお一人と考えています。「正しい食のあり方」について東奔西走、全国を講演で飛び回り、実地の料理指導は高崎市内のご自宅を教室として奥様があたっておられます。
文才豊かな先生は、以前、小説で「上毛文学賞」を受賞したくらいの才能がおありなので運動のかたわら『生活革命=玄米正食法』(1981年)、『元気の革命』(1984年)、『食べもので病気は治せる』(1988年)、『アトピーを家庭で治す』(1991年)、『『玄米食は病気を治す』(1995年)いずれも新泉社発刊と、本を書かれています。
また『GENMAI』(Japan Publications)をニューヨークで出版、食の思想以外にも日本の超古代文献『ホツマ伝え』を研究され、日本語の一語一語がもつ言霊(ことだま)の研究によって『言霊アワ歌の力』を解読・普及に務められています。学校で習うアイウエオは、なぜア行で始まりワ行で終わるのか、日本語の源流を知る上でも、日本古来の文明や、日本という国の形はどのように成り立っているのかを知る上でも一読の価値ある一書です。(写真・右側、1996年・群馬マクロビオティックセンター刊・税込1,000円)
若いときは、ご自身の病弱で苦労されていますので、人生の酸いも甘いも知り尽くした苦労人です。多くの病者や弱者を「正しい食のあり方」で指導して来られましたが、食を通して暮らしを正して貰い、健康になって頂くのが務めと、長年その姿勢が変わることはありません。
もし、マクロビオティックに興味、関心がお持ちだったり、食を通して病気や暮らしを正したい等で、石田先生にご相談を、とお考えの方は、群馬マクロビオティックセンター・〒370-0847群馬県高崎市和田町7-13・電話・FAX027-322-5484までご連絡下さい。
食の匠たち-11 江戸の味を守り続ける・佃煮の老舗・日本橋 鮒佐

東京でも日本橋界隈は江戸時代から続く老舗が多い街である。日本橋室町にある三越日本橋本店の向かい側の路を4~50m先行ったところに佃煮の老舗「鮒佐」さんがある。文久二年だから幕末の頃の創業で、初代は「鮒屋佐吉」といった。現在の当主は四代目の宮内隆平さん。(写真・左上)
我が家ではここ数十年来、朝の食卓に「鮒佐」の佃煮を欠かしたことがない。私が仕事で東京へ行く機会が多くなり、母親から買ってくるように頼まれて立ち寄ったのがキッカケといえる。現在102歳(健在)になる母親が若いとき、東京の本郷に住んでいて、その頃から贔屓にしていたというから、通算すれば 70年くらいの母子二代にわたるお付き合いである。
そのような関係で四代目に色々お話を聞きご登場頂くことになった。
初代は房州出身で、江戸の神田お玉が池にある「北辰一刀流・千葉道場」で免許皆伝の腕前だったそうである。ところが時代は幕末で、もはや武士が巾を利かす時代でない事を見通したのか、千住界隈で作られていた「鮒のすずめ焼」を自ら製造販売を始めて転身、食通の間に評判となった。当時この辺は、日本橋の魚河岸もあり、江戸でも殷賑をきわめた場所である。
俳人・松尾芭蕉が江戸へ出てきて、魚河岸に住んでいたことは資料に明らかで、鮒佐さんの店の入り口には、ゆかりの石碑が立っている。「発句(ほっく)なり 松尾桃青 宿の春」という句であるが桃青(とうせい)は、芭蕉の前の俳号。建立までの資料、発掘、検証は四代目・宮内さんの尽力によるものである。(写真・右下、左の石碑)
当初は佃煮といっても江戸前で獲れた材料が主で、種類も少なかったが、白魚の佃煮などは食通の高級な食べ物であり、落語の中で、泥棒が侵入した家の食卓に「鮒佐の白魚」が載っているのを見て、貧富の判断材料としたいう。落語(はなし)の中に老舗の商品を取り入れて、CMにしてしまうのは、現代の手法を先取りしたものといえる。
三代目(先代)は、日本橋の小学校で久保田万太郎(作家)と同級生であった。万太郎は、新派の名作「婦系図」(おんな系図)の脚本に、鮒佐の佃煮を手土産に訪問する場面を設定、友情PRという粹な計らいに及んだという。それで、主演の花柳章太郎も自筆の絵に「鮒佐煮や時雨る味の東京を」という賛を添えて描き贈っている(写真・右上)。それゆえ、戦前から鮒佐の佃煮を贔屓にする有名人は多い。
佃煮も名称の起こりは、徳川家康が三河から連れて来た漁師が佃島に住み、小魚を塩煮にしたのが始まりとされている。しかし、現在の佃煮は、醤油がなければ成り立たず、江戸後期の関東における醸造業の勃興をまたなければならない。だから、現在の形の佃煮は意外と新しいもので、初代が今の佃煮を考案したのは、ほぼ間違いないという。「元祖佃煮」を名乗るゆえんでもある。
佃煮の材料も戦前、戦後、時代により変化している。江戸前の白魚など、とれなくなってしまったが、お客様の嗜好の変化も察知して、新しい素材も揃え、昔ながらの海老、はぜ、しらす、はまぐりの他、現在は、三十数種類にものぼり、他に煮豆類、甘露煮まで取り揃えている。
老舗と言っても、各店中身を見ると意外に革新的な意識を持っている。材料も出尽くしたようで、探せば結構よい素材があるという。また、煮方、味の付け方も代々工夫して、昔からの方法に加え、五代目(ご子息)が工場の陣頭指揮をとっている。細かいノウハウの蓄積は膨大なものになるという。ただ、以前と違って神経を使うのは、素材の調達。産地の変遷や変化に対応して、時には外国産のものにも目配りするが、品質に対する基準を落とすことはない。
佃煮というと「古い食べ物」というイメージを払拭するため、若い人向け食べ方の提案も、五代目(ご子息)を中心にいろいろ試行している。また、既存の流通以外に時代でインターネットも力を注いでいるが、日本橋・老舗同士のコラボレーション(名だたる老舗合作のお節料理「七福」)も新しい試みとして始まっているという。
お節料理に、鮒佐の「鮒のすずめ焼」「海老のおにがら焼」「わかさぎのいかだ焼」は、欠かせない。この日本の食文化の一角を形成する「佃煮」が、もっと見直され、再評価されてしかるべきと思う。これを機会に一人でも多くの人が知る端緒となればと思いご紹介した次第であります。
食の匠たち-10 風・光・空気・水までも味方につけて創る料理人・渡部綱善さん

赤城山東面から沼田・片品村へ続く根利街道は、東京から尾瀬・奥日光方面への抜け道である。国道122号から別れて登ると、40年前に通ったころは、雨のぬかるみで出来た轍(わだち)にタイヤがとられ、難儀した路でもあった。運転に不慣れな都会のドライバーが谷底へ転落する事故がしばしば起こるような悪路でもあった。しかし、近年は、鋪装も完備し、トンネルも抜けて快適な観光道路となっている。最近合併して、黒保根村から桐生市黒保根町となったが、山の中の環境は全く変わらない。
そんな場所柄だから、最初「ろぐてい」を訪れたときは、こんな辺鄙な場所で商売になるのかしら、と思った。ところが渡部さんの料理を食べてみて、なるほどここはこの場所の全部が料理の味を創っていると感じた。だから、お客さんが何回も訪れるのは、環境と料理によって癒されると感じるのかも知れない。
春は、目にもまぶしい新緑が風となってエネルギーを運んでくる。夏は、山間から渓谷に向かって吹きわたる風はさわやかである。秋は周囲の景色全部が紅葉で色あざやかに染められる。冬は、寒さはきついが積雪はそれほど多くない。この場所に縁もゆかりもなかった渡部さんが、住み着いたのは12年前、きっかけは趣味の渓流釣りで、何年もかよっているうちに、自然にここを選んでいたという。
福島出身の渡部さんが就職で上京し、最初に就いたのが「森永」のレストラン部・調理場の配属だった。そこで料理を覚え、喫茶部へまわされたが、その時にケーキの作り方、パンの焼き方も身につけた。しかし、若さ故かトラバーユして就いた仕事が「半導体の設計」という最先端の仕事。26歳から17年間、43歳まで従事していたが、余りに自然とかけ離れた生活に虚しさを感じて、何かをやらなきゃと思って、夫妻で日本中を食べ歩きながら料理の研究を始めた。
今の食材供給元は、その時の縁でつながった産直の供給先が多いという。自分の好きなコンセプトで組み立てアレンジした料理だから、本当のイタリア料理とは言えないと謙遜して言いながらも、食材を選ぶ目利きであることが食べてみると分る。
イタリア料理のメインの食材である海鮮類は、佐渡の知人から直送される。なかでもそこで採れるイカは厳選したものを送ってくる。奥さんの出身地である九州からもメンタイやシラスは産直で送られる。
野菜については、地元といろいろな農家とご縁が出来て有機野菜のみ直接仕入れが可能である。もともとキノコ栽培な盛んな当地では、年間いろいろなキノコ類が豊富なので「畠シメジ」等も栽培され、イタリア料理には最適という。だから、海鮮類でもこんな山の中で活きのよい珍しい魚介類が出てくるのに驚くことがある。
奥さんの律子さんは、素材の関係で事前予約のみ「懐石風和食」を供してくれる。趣味で集めた器もまた目の保養になる。「私のは食べ歩きで覚えた和食の延長」というが、これだけ料理を作るのは、ご主人より料理の才があるのではと、かんぐるほどである。塩の研究では熱心さにおいて右に出る人はいない。いろいろな料理人に塩の使い方をお願いしたが、打てば響くような答えが返ってくるのは彼女が一番早い。そして、素早く自家薬籠中のものにしてしまう。
お二人のイタリア料理におけるこだわりの一つに、素材に加えて見い出したギリシャ産のオリーブオイルがある。いろいろ試した中で選んだものでアルティス(Altis)という銘柄。あるルートで現地調達するという。「ろぐてい」のウリの一つに料理もさることながら、自慢のコーヒーがある。コーヒーを淹れる水は、友人宅の敷地内に300年間こんこんとわき出る赤城山の伏流水。取りにいったり、届けてくれたり、この水は料理にも欠かせない。
都会から移り住んで12年経ち、すっかり地元にも溶け込み、遠来のお客様がわざわざ訪ねて食べに来てくださるのが大変嬉しいという。国道122号を真っ直ぐ行けば、日光清滝に出る近道だが、10分ほど脇に入って「ろぐてい」へ立ち寄っても、そのまま、根利街道から、尾瀬・奥日光へ、ロマンチック街道につながっている。風・光・空気・水までも味方について美味しい料理を作る渡部さんの「ろぐてい」は、癒しのレストランといえる。
活用事例・・「風、光、水ー料理がうまい」はこちらから入れます・・・
食の匠たち-9 洗練された味が感動を呼ぶ・フレンチシェフ鈴木道朗さん

親子二代、思えば長いおつきあいである。私が最初に店を訪れたのは、食事に行ったのではなく、40年前、二十歳代半ばのころ、父親が病気の療養中「すずき」のスープが飲みたいという希望を特別聞き入れて貰い、独立開店したての店へ容器をもって取りに行ったことに始まる。
鈴木さんは、戦前から桐生にあった「桐葉軒」(とうようけん)というレストランで修業した。名前は古くさいが当時としては、他の街にもなかったハイカラな店だった。桐生は織都であり、京阪神や東京の百貨店、卸問屋の仕入れ方との交流が多かった。それだけに一流の味を誇った店が多かった。
「桐葉軒」(とうようけん)は、桐生倶楽部という政財界人の集まる建物の敷地の中にあった。フランス語も独学で習い、厳しい修業の後、22歳で料理長に抜擢された。通算12年の時を経て市内で「すずき」として独立、味のよさで繁盛した。
現在の場所に移転したのは1979年、本格フランス料理「ファンベックすずき」。ファンベックは「鋭いくちばし=食通」という意味だった。店は繁盛し、県内外でシェフとして活躍する20人以上の弟子も育てた。また、直弟子以外の他店で修業したシェフにも快く教えたことから、恩恵を受けた人も多く、「群馬のドン」といわれるゆえんでもある。
ファンベック開店の前に初めて渡仏、現地の一流料理店を食べ歩き、自分の料理がフランス料理であることを確信したという。そのころの鈴木さんは「味に妥協を許さない」という感じが料理にも表れていた。
自分の料理が完成したと思えるようになったのは「六十歳になってから」という。
だから、昨年の4月、店の改装を機に店名を「シュマンドール」(黄金の道)に変え、客席も40から29に減らした。そして、客席の目の前で料理をするオープンな「フィニッシュ・キッチン」方式に改めた。「お客様一人一人の料理人になる」という夢に一歩でも近づきたいためという。
鈴木さんの料理には、「洗練された」という形容詞がふさわしい。どれをとっても垢抜けている。だから、東京都内の一流店やホテルのシェフも食べに訪れ、味に驚嘆して帰るというが、好奇心の強い熱心なお客様には、料理の作り方を教えながら会話を楽しんでいるように見える。側で見ていても「教え上手」である。
近頃の料理は、洗練さを超えて、素材の扱い、ソースの味、味付けにしても、一種の遊び心(ゆとり)が伝わって来る。脱フランス料理・ステージアップの域に達したのかと見まごうばかりである。ここまで来たら、やがて料理の仙人「仙境」の域に達するまでの味を見たいものと思っている。まだまだ当分お付き合いが続きそうな料理人の一人である。
食の匠たち-8 醤油造り伝統の技を守る

創業天保三年、170年余の伝統を受け継ぐのが、㈱有田屋工場長の萩原恒男さんです。長い歴史の中で何代目の工場長かは数えたことがないそうだが、入社44 年目の大ベテランではある。顔のしわひとつにも長年、麹造りや、もろみの仕込みに全精力をつぎ込んできた匠の顔そのものである。
醤油造りは、代々の職人さんから受け継がれる伝承技術ではあるが、もちろんその時、その時でいろいろな技術改良は行われてきた。しかしながら、有田屋で現在も守られているのは「天然醸造」で、人工的に温度、湿度を加えず、上州の気候、風土に任せた醸造法である。
それだけに、毎年均等な品質の醤油造りには、一番腐心するところだという。それゆえ、自然に気象、気候に対するセンサーが鋭く磨かれ、毎日の天気模様にきめ細かなアンテナを張りめぐらしている事が言葉の端はしに窺われる。
醤油造りの要(かなめ)は「手入れ、櫂入れ、火入れ」といわれるが、「手入れ」は麹造りの管理を意味している。その要点は、通風管理と温度管理だという。麹造りが始まると、3日間くらいは、不眠不休の気が抜けない時が続くという。もちろん、麹菌にの中に雑菌が入り込んで汚染されないよう、麹造りの装置には、清潔が保たれるよう細心の注意を払いながら作業が進む。
あらゆる工程管理での技術を維持し、改善し、伝統として次世代に伝えて行くのが工場長の責任と萩原さん。醤油はお酒と違って季節を問わず仕込めるのが一般的だが、「天然醸造」の伝統から有田屋では、仕込み時期も、寒仕込みが行われている。
どうしても追加の仕込みをしないと間に合わないときは、秋の仕込みもするという。理由は、低温時の仕込みは、もろみの原料利用率が高いという利点を活かしてのことである。合理化や省力化は進めながらも、古き良き伝統技術は着実に、次の食の匠たちに受け継がれて行くに違いない。
今回、キパワーソルトという伝承技法によって造られた塩を使っての醤油造りは、有田屋にとっても、新しいチャレンジだったと語る。創業以来守り続けてきた『富國』というトップブランドで発売決定したのも、その思い入れの現れであると感じる。
いまや「ソイソース」といえば世界で通用する優れた調味料として脚光を浴びる醤油だが、すぐれた技術の伝承を守り続けている醸造メーカーが生き残れるかというのは、消費者の意識と理解にかかっていると考える。
食の匠たち-7塩の使い方に新境地・尾島良治さん

尾島さんは戦後、桐生でお父さんが開いた「江戸っ子寿司 を継いだ二代目。
二代目のきついところは親以上の味を創り出していかねばならないことでしょう。それとお寿司屋さんは、近年時代の変遷で、昔のままの営業形態でやっている店がどんどん減っているという厳しい環境にある。回転寿司のような数と廉価志向か、
寿司本来の味で勝負の生き方か、二極志向の様相を呈しているわけです。
そんな中で、尾島さんのコンセプトは、あくまで寿司本来の味と、さらに深化した寿司作りに挑戦し続けている。それだけに修行時代から師匠には、徹底的にタネの鑑別法、見分け方を仕込まれたという。地方の寿司屋さんは良いネタの仕入が大変だが、東京の築地には毎週通ってなじみの仲買店から吟味に吟味を重ねて仕入れて来る。本当は週2回行きたいのだそうだが、往復7~8時間かかるので、週一回の買い付けとなる。
もちろんマグロの鑑別には最近輸入魚が増えているだけに力を入れて勉強しているが、むしろ神経を使って見分けてくるのが季節、旬の小魚類。春や夏にはシンコ、コハダ、アジ、マコガレイ、イナダ、アオリイカ、トリ貝、アワビ、穴子、シャコ、カツオなど、秋や冬にはさサバ、サヨリ、スミイカ、車海老、みる貝、赤貝、マダコ、ハマグリ、ヒラメ、真鯛など。
種類も多く、水揚げ地もさまざまなだけに、旬の味を選ぶには長年のカンと経験が頼り。長い常連のお客様の舌に応えられるには、魚の目利きが繁盛の分かれ目となる。また、帰ってから仕入れたものを丁寧に仕込みにかける時間を費やす。最近は、仕込済みのタネを仕入れてくる寿司屋さんも多いというが、尾島さんは塩の使い方に工夫と研究を進める中で自信をつけて行った。特に本当の通が好むというコハダの塩の振り加減と、酢の締め加減は絶品である。
玉子焼きも修業時代の親方に仕込まれた「東京焼」の味を守り通して焼いているが、一工夫したのがキパワーソルトの使い方、塩加減で日持ちが良いのと、味が一段と良くなったとお客様の評判も上々。最近は、白身の魚を塩味で食べるお客様のリクエストが増えたが、タコも塩味であっさりした塩加減で食べると美味しいと、食通からの注文が多いという。(写真は、白身魚とタコを塩味とスダチをちょっと絞り食べる)
タネの仕込みもさることながら、意外と難しいのがシャリの選別と炊き方。昔から「握り鮨の味は、タネが4分にメシ6分」といわれるほど。それだけに米の産地情報と仕入には気をつかう。鮨飯に最適なのは、寒暖の差が激しい山間部でとれた小粒のお米の方が適している。かえって平野部でとれた大粒の米は柔らかく、温度が冷めたときにべたついてしまうという。鮨飯の炊き方も塩の使い方で随分違うというから、お米が変わる度に、塩加減の使い方を研究し、ノウハウを溜め込んでいるという。
キパワーソルトと塩田の塩で、いろいろな使い勝手を研究している寿司屋さんとしては、いまのところナンバーワンと言えるでしょう。これからも精進を重ね、名人といわれる域に達するよう頑張って頂きたい二代目です。
食の匠たち-6野菜作り、料理、氷の彫刻、独自の境地を目指す才人・村上元彦さん

6月の初め、中学時代の親友から「美味しい評判の店があるから行ってみないか」という誘いを受けた。食べに行く理由はなんとでも付けられる。そういう話しはまとまりが早い、たちまち5人の同級生で食べに行った。洗練された料理と、雰囲気のある店構えで満足した一行だったが、オーナーシェフの顔を見て、いつかどこかで会った顔。
いろいろ話を聞いてみると20年以上前に市内でフランス料理のレストラン「亜空間」という店を開いていたシェフだった。当時は、普通に家内などと食事に行った通り一遍の客だったが、歳月の経つのは早く、久しぶりの再会だった。
村上さんの料理人としてのスタートは、東京・有楽町にある「ニュートーキョー」の別館にあるレストラン。新宿、銀座にある一流レストランに勤務したあと、フランス料理は鉄人・坂井の高弟から学び、一緒にテレビ出演したことも多々あったという。20歳のときから勉強を始めた「氷の彫刻」は、以来現在に至るまでライフワークのひとつ。群馬県・伊勢崎市に開いた師匠のフランス料理レストランでチーフを勤めた後、24歳の時に桐生で開店したのがフランス料理のレストラン「亜空間」。30歳まで6年間営業して、思うところあり閉店して、氷の彫刻で全国のホテルから仕事の依頼を受けながら、デザートの研究に打ち込む。
PSJ研究所・南雲成次さんとは、30年来の盟友で、氷彫刻ではコンビを組んで北海道や長野県で行われる大会で多くの賞をとった。北海道で開催された世界大会では第三位になったという。また、テレビチャンピオンになったこともある。氷彫刻戸外の大会では、厳寒-20度の中を3日間も作業したことがあるというから体力も必要である。現在は、隣の町から依頼されて、祇園祭・実物大の御神輿の彫刻も頼まれ、夏の一夜を4~5時間の命だが町民に涼風を送る仕事も引受ている。写真右上は、ホテルでの氷彫刻作品。
デザートの研究では、会社を立ち上げ独特な製法とデザインで東京の一流ホテルやレストラン・宴会場に納入している。だから、ホテルの結婚式で村上さんの作品と知らずデザートを食べている場合があるのでないだろうか。現在会社も軌道に乗って来てるので、自分の作りたい料理を作るコンセプトで昨年秋に開いたのが「月花」。
さらに、もうひとつのライフワークである「そば打ち」「うどん打ち」である。「そば打ち」は、会員800名を擁する教室を主宰しているが、うどんも地粉造りから取り組んで研究に打ち込んでいる。
塩の使い方についても一家言あり、キパワーソルトの評価も高く買っている。これから塩談義の相手が近くに出来て喜ばしい。多才な顔をもつ才人がいよいよ研鑽を積んで、自の境地に至れるのかというのも見ものではある。
食の匠たち-5既成概念を打ち破る野菜作り・南雲成次さん。

世間一般の常識からしたら「変人・奇人」という評価が成り立つ。ただ、南雲さんと話をしていると感じるのは、どこかのコマーシャルで言っていたが「目のつけどころが違うでしょ・・」ということにピッタリの御仁である。
南雲さんが農業を営む隣町の隣村であった新里村は、今回隣町を飛び越して私の住んでいる桐生市と合併した珍しい合併例のところにある。だから、南雲さんとの出会いも変わっていた。
5年ほど前、東京・銀座にある「異業種交流会」の席上で、パーティー料理を作りながら、持ち込んで来た野菜をしきりに「生で食べてみてください」という人がいた。奨められるまま、キャベツや人参を生で食べてみたが、シャキッとしていて柔かく、味は今まで食べた有機野菜とは一味ちがうものを感じた。長年、有機野菜を試食していると、使った堆肥の種類がある程度分かるようになる。南雲さんの野菜は、それを感じさせない野菜の素直な味がした。
聞いてみると、近くの新里村というので後日尋ねることを約束して、往来が始まり5年経ったのである。初めて尋ねた日、自宅の周りにある自然発生したのか、植えたのかわからないが、いろいろなハーブを摘んでは食べさせられた。つまり、南雲さんにとっては植物の生育を観察する手近なサンプルなのである。畑へ行ってみて驚いたのは、広い面積の土の柔らかいことである。今まで見た有機農法の畑では無かった感触なのです。
この畑では長い大根も子供の力でスーッと引き抜ける。その土の秘密は、畑の奥に山と積んである堆肥にあった。完熟して土と化した堆肥をダンプ100台分入れたというから柔らかい筈である。いろいろな野菜がのびのび育っているのが分かる。南雲農法の特徴は、考案した独特の堆肥造りにあり、切り返しの時に使うキパワーソルトの希釈液にノウハウが秘められています。もちろんキパワーソルト希釈の葉面散布にも工夫が凝らされている。
キパワーソルト・ホームページ 赤城山麓 PSJ研究所
南雲さんは、もともと腕の立つ料理人であった。美味しさ 追求しているうちに、 本物の素材は自分で作らねば本当に良いものは出来ないと農業を始めた。だから真新しいキャンバスに自由な色を塗る、従来の農家にない発想で作物造りを始めたから、既存の農家からは異端視されたのも無理はない。
写真左の手に持つ野菜は、西洋種のゴボウでである。グロテスクな形からサラダにすると美味なることは想像し難い。写真右・温室栽培のトマトも、もともと原産地ペルーの高原地帯である乾燥した高地の環境を再現し(室内環境造りにいろいろ工夫が見られる)遠い遺伝子DNAレベルの性質を呼び覚まして上げるような育て方をする。 それで、西洋ゴボウもトマトも性質、性格を最大限に発揮できる自由な育ち方をする。結果、トマトは水分が25%も少ない、濃密な味わいと甘さで、契約したレストランや納入先から引く手あまたで大人気となる。
南雲さんの趣味は多彩で、そのひとつに渓流釣りがある。ある年の夏、沢山釣ってきた岩魚をキパワーソルト味で燻製にしたものを頂いた。 今まで食べたどんな燻製にも勝る美味であったが、何をするにも器用なのである。その昔、料理人時代には「氷の彫刻」で、さまざまなコンクールで賞を総なめにした過去を知る人は少ない。特に、「月花」のオーナー・シェフ村上元彦さんとコンビで、様々な大会・コンクールで名声を博したことを最近村上さんとの出会いで初めて聞いた。
自然農法や有機農業を営んでいる農家はそれぞれ工夫を凝らしているとは思うが、南雲さんのような奇想天外ではあるが自然循環型の農法で、生産効率を上げたら、食糧自給率改善に貢献できる可能性大と思う。これからの新発想による開発がますます期待できる。
食の匠たち-4若き名シェフ・池田隆二さん

池田隆二さん、偶然にも同姓であるが、彼と出会ったのは4年前、日本橋にある老舗百貨店の展示場であった。彼は、自分で創作したドレッシングを展示していた。温顔と温厚な人柄から同姓のよしみもあり、直ぐに親しくなった。話を聞いてみると童顔で若そうな人柄とは裏腹に、料理に対する見識と経歴は中々のものがある。
1964年東京生まれというからまだ若いが、料理人としては油の乗り始めた年齢でもある。子どもの頃から料理好きで、「リュウちゃんのご飯は美味しい」と評判になり、友達から何か作ってとリクエストされるくらいだったというから、シェフを目指したのは当然の成り行きといえる。
18歳で株式会社藤田観光に 入社。新宿ワシントンホテル洋食課・メインレストラン「ガスライト」に配属されオープニングスタッフとして立ち上げに青春時代を過ごした。3年間の勤務を経て、ドイツ・ケルンの「KIKKOMAN DAITOKAI GMBH Koln」(キッコーマンの現地法人)に入社。2年後に最年少で料理長に就任したというから、単なる料理好きだけの才能ではない。
ドイツ時代に現地で学んだドレッシングの作り方が後年、創作ドレッシングの製造する原動力になったという。
89年 帰国後、六本木にあったかつてのステーキの名店「樹」(いつき)に入社、その時ステーキに対するセンスも磨いた。その他、赤坂店(イタリアンレストラン 「AKASAKA-SHOKUDO」)・池袋店
(イタリアンレストラン「Trattoria MUSE」)料理長兼店長を歴任(池下レディースクリニック料理責任者も兼任)。99年、レストラン「Kudamm Platz」に入社。料理長兼店長に就任。
2001年3月には、テレビ番組 「どっちの料理ショー」に出演。同年4月に独立、株式会社ビデカと提携。「ベルリンの壁」ブランドを立ち上げ、こだわり手作りソースをプロデュ-スしました。それが4年間をかけて開発した「ベルリンの壁」ブランドのドレッシングです。(写真右側)日本生命のホームページ「家庭の泉」料理欄も一年担当したというから、活躍は多岐にわたっている。ベルリンの壁ホームページhttp://www.videca.co.jp/berlinnokabe/index.html
数多く出会った料理人の中でも瞬間的に判断できる人はそう多くはないが、4年前に出会ってキパワーソルトを一舐めして、彼は直ぐにその価値がわかった一人です。爾来、あちこちPRして下さいましたが、特に今回は自らチーフを勤め、後進の指導にあたっているレストランcacciatore(カッチャトーレ)で、全面的に採用して、お客様から「美味しいの評判」を頂いています。
料理人としては、これからが円熟期の境地に入る年齢ですから、さらなる精進を期待すると共に、現在、塩に関してコラボレートの話しも進行中です。
食の匠たち-3鶏大好き青年・生方彰さん

「寝食を忘れて」という形容があるが、彼の鶏を世話する態度はまさにその通り、鶏大好き人間である。3年前、知人の紹介で群馬県北部の子持山麓で好い飼い方をしている養鶏場があると聞いて尋ねて行ったのが最初である。
関越道の昭和村にあるインターを降りて車で20分のところにある「子持自然恵農場」で待っていたのが生方青年(場長)だった。自ら「鶏大好き人間」というように、鶏にたいする愛情は並々ならぬものがあった。
キパワーソルトを使うことの意義についても熱心に耳を傾けてくれた彼は、以来律儀にも餌の中に入れてずっと使い続けている。また、鶏について語りだすと彼の話は終わることを知らず、本当に鶏が好きなのだということがわかる。
「鶏は砂遊びが大好きなんですよね」という彼の言葉に、終戦後食料難の時代、庭で鶏を飼っていた事を思い出した。その時は、当たり前の光景と思って特に気にかけていなかったが、彼の観察眼は鶏の細かい習性にまで知り尽くしている感じがする。水ひとつとっても溜め水ではなく、いつも新鮮な掛け流しで鶏は水を呑むことができる。
しかし、ここ数年彼を悩ます問題に「鶏ウィルス」による風評被害がある。「子持自然恵農場」のような現在では少ない「平飼い養鶏」の鶏の抗病力や免疫力は、「ゲージ式工場養鶏」に比べて圧倒的に強いのだが、いったん風評が立つと今まで信頼して来た消費者まで及び腰になる事があるという。
鶏卵という食品は「価格の優等生」といわれるくらい安い値段が続いている食品のひとつです。逆に言えば養鶏家の経済効率追求により成り立ったいたのかも知れないが、飼い方はおよそ生き物を飼うというものではなく、100万羽、200万羽という単位で窓のない工場のような養鶏場で消費者の目に触れることは全くない。しかもブランド名も環境団体が問題にしたように「自然」「オーガニック」のまぎらわしいうたい文句にしているから、消費者はなお良否の判別がつかない。
一万羽未満の「平飼い養鶏場」などは飼い手の思想と消費者の思いがつながることにより成り立っている。それだけに情報発信は重要だが、少ないスタッフで鶏の面倒をみる時間にとられ、なかなか思うよう行かないという。最近では茨城県で発生した「鶏ウィルス」だが、近いだけきめ細かいインフォメーションの必要が痛感される。
だから消費者の方々に「ウチの農場へ来てみてください」というのが、今まで一番の情報発信だったが昨今はそれが出来ないのが悩みという。というのも、山から来る野鳥や、鴉、野鳩などの持ち込む病原菌にも気をつけているが、今は人間が持ち込む「病原菌やウィルス」のほうがよほど怖いのかも知れないからですね。
賢明な消費者の支持がもっと得られるならば、「平飼い養鶏場」の拡大は可能です。遠くでも送る流通システムは出来上がっていますから、気(Qi)のパワーの高い玉子を召し上がって頂きたいと思います。
飼い方の詳細は、 "http://www.qisalt.com/user/index.htm">http://www.qisalt.com/user/index.htm の子持自然恵農場をクリックしてください。
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