『七日市藩和蘭薬記』
どんな時代でも平穏無事な期間はそう長くはないものだが、300年近く続いた江戸時代も後期になると波乱の時代を迎える。高視聴率を博したNHKの大河ドラマ『篤姫』も、そんな時代背景と今まで余り知られていなかった人物像の意外性が興味をひきつけたのではと考えられる。以前、「百七十余年、伝統を受け継ぐ地方醸造家の変遷史・キパワーソルト醤油物語」を紹介したことがあった。
そのとき感じたのは、長い間の鎖国で国外の情報には暗かったのでは考えられるのに、意外なほど武士、商人、百姓が海外の事情に通じ、勉学意欲に盛んな人々が大勢いたということであった。
本書は、その時代唯一外国との窓口であった長崎出島の和蘭(オランダ)商館経由で入って来た医学や薬学の情報がどのような人々によって国内に流れて行ったか、ということが一つの軸になっている。
それは一つの背景であって、舞台は意外にも上州・七日市藩(現在の群馬県富岡市七日市)が主役となっているところに興味を引かれて一気に読むこととなった。まして七日市藩が、金沢の加賀百万石大名・前田家の支藩(いわゆる飛び領)であったことを同じ群馬に住みながら初めて知った。
一万石の小大名でありながら、その特異性ゆえに江戸幕府の隠密(情報機関)や和蘭(オランダ)薬の調合をめぐって薩摩藩(鹿児島)島津家の間者(スパイ)との暗闘などに至る経緯は、当時の各藩が財政収入をあげるため、米以外の換金しやすくしかも利益の大きな産物を探求していたことにある。
この小説の主人公は、加賀前田藩士で飛び地の七日市藩・薬事奉行に任ぜられた宮脇一之丞と息子・一馬で、加賀から京都、長崎、江戸、上州と物語は繰り広げられる。フィクションといっても作者は工学部出身者らしい史実・史料に丁寧な考証を加え、当時の時代背景描写は正鵠を射ている。
当時、オランダ商館の蘭館医・シーボルトが禁制品の「日本地図」を持ち出そうとして発覚した大疑獄事件があった。それに連座した江戸幕府高官、長崎の有能なオランダ語通訳、使い走りに至るまで数十人が死罪ほかの厳罰に処せられた大事件であった。
当時の日本人の海外事情など、知識欲につけ込み和蘭薬と交換条件で禁制の地図を入手したと思われるが、西欧人の目からみれば日本は「黄金の国・ジパング」であり、工芸品ばかりでなく持ち出し禁止の豊富な薬草(和漢薬)を採集させて本国へ送り、詳細な報告書まで提出していた。
四季があり植物の種類が豊富な日本では当たり前と思えることが、異国人にしてみれば大変な情報価値があったに違いない。いま現在でも、いつの間にかアメリカ産の「コシヒカリ」「アキタコマチ」が日本のマーケットに侵入しつつある。札幌農学校のクラーク博士が持ち帰った大豆は、いまやアメリカ農産物では世界一のシェアーを占め、日本では大豆の殆どをアメリカに頼っている始末。「灯台もと暗し」自国にあるものの価値を分らず外国との情報戦で負けているのは、当時と昔から変わっていない感じがする。
お正月など、ちょっとお暇のある時に幕末という激動の時代を生きた群像を面白く読める一冊ではないかと思います。
●『七日市藩和蘭薬記』
★著者・たなか踏基
山形県山形市生まれ。新潟大学工学部応用化学科卒業。
日本火薬㈱で化学技術専門職。『雪』で京都大学新聞社懸賞小説入選。
著書に『進化する化学技術』『奇妙な喫茶店』(文芸社)『奇妙な猫たち』(文芸社)
『奇妙な受精卵』(幻冬舎ルネッサンス)等の小説を発表。
★定価、 1,500円(+税) 発行・幻冬舎ルネッサンス
